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桜間伴馬(左陣)(1835年〜1917年)技に勝る「明治三名人」のひとり金春流の桜間家は、肥後の国・熊本の細川藩に仕えた名門である。かつては藤崎八幡宮の伶人を勤める極めて古い家系で、喜多流の友枝家とともに神事を司ってきた。江戸時代になって両家とも能楽の家となり、各流に組み込まれ、細川家・藤崎八幡宮の双方に仕え、能を競い合ったという。 桜間伴馬は、天保六年(1835年)に熊本で生まれ、桜間家の十七代の跡目を継ぐ運命にあった。若い頃から名手の誉れ高く、地元の人たちから賞賛されていたが、二十一歳になってから二回ほど江戸へ上り、当時名人といわれていた中村平蔵に師事し、都合5年にわたって修業を積んだ。その稽古は、並みではない激しいものであった。伴馬は、後に息子の桜間金太郎(弓川)にたびたびそう語り伝えたそうだ。「明治三名人」と讃えられる伴馬の芸は、ここで磨かれた。 当時は今のように交通の発達していない時代であり、郷里を出て他所で修業をすることは、大変な覚悟を求められた。芸を身につけることができなければ、故郷の土は踏むまいという固い決意を伴っていたのである。江戸で抑制の利いた型を身につけた伴馬は、熊本に戻って能を舞ったが見物の一同から、「能が下がった」と評価される。しかし当時、喜多流・友枝家の太夫を務めていた名手の三郎翁のみが、「いや、あれが本物だ」と語ったと伝えられている。 明治維新の激動は、熊本を拠点に活躍していた伴馬にも大きな変化をもたらす。明治十年(1877年)に起きた西南の役で、舞台と屋敷が焼かれたのである。装束や面を持てるだけ持ち、何とか逃げおおせた伴馬は明治十三年(1880年)頃に、細川候の計らいもあったのか、三度目の上京を果たす。それ以来、終生を東京で過ごすこととなる。当時、東京の能楽界はようやく一時の衰退から脱け出し始めた頃であった。 明治十四年(1881年)、芝に開かれた新しい能舞台の舞台開きに参加した頃から伴馬の名も知られ始め、さらにその後、同舞台で舞った「邯鄲」、「道成寺」の高い評価により、宝生九郎知栄・梅若実の両巨頭に匹敵する名手であると人々から認められることとなる。ことに「道成寺」では迫力ある独特の鐘入りで、名声をとどろかせた。その後、名を得てからもますます稽古に励み、名実ともに「明治の三名人」としての地位を確立する。 頑健な体を活かして晩年まで舞台に立ち、演能回数は九郎知栄・実をしのいでいる。苦しい時代に金春流を支え、宗家を盛り立てる立場としても活躍した。齢八十を過ぎた大正四年に宮中御能舞台で「高砂」で勤めた前シテが最後の装束能となり、大正六年(1917年)、宝生九郎知栄に後れることおよそ三カ月で、この世を去った。 英文学者にして能楽研究のパイオニアの一人である野上豊一郎(作家の野上彌生子の夫)は、桜間伴馬の能に魅了され、その後の生涯にわたって影響を受けたと述懐している。伴馬の芸風は堅実にして華麗絢爛で、巧みな技能を有していたと伝えられている。三名人はそれぞれ、機略に勝る実、位に勝る九郎、技に勝る伴馬といわれていたようである。 【参考文献】
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