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津村又喜(1829年〜1900年)葛野(かどの)流の芸統を継ぐ、明治の大鼓三名人のひとり
津藩主、藤堂家に仕えた「能楽」誌を主宰し、明治能楽界の隆盛に大きく貢献した池内信嘉によれば、明治時代は大鼓の各流儀に名手が多かったそうだ。その質の高さは江戸時代の盛んな頃をしのぐと言われたほどだとも記している。葛野流ではこの人、津村又喜(つむら・またき)が名人のひとりとして知られる。葛野流は、江戸時代初期、大鼓の第一人者として活躍した葛野九郎兵衛定之を流祖とし、主に観世座についていた。九世として明治を迎えた葛野九郎兵衛定睦には後嗣が出ず、宗家は絶える。流儀途絶の危機であったが、津村又喜がその芸統を継ぎ、後世への架け橋になった。 津村又喜の「又喜」は芸名であり、本名は「喜又」といったようだ。もとは又太郎といったが、子が舞台に出るようになって名を譲り、又喜と称するようになった。幕末時代は津藩の藩主であった藤堂家に仕える能役者として育った。九歳の頃に葛野九郎兵衛定睦の門下に入り、稽古を開始した。早くからその才は注目され、青年期には門下の筆頭といわれるほどの技芸を現す。葛野九郎兵衛定睦も津村の才能を見込み、幕府のお抱え役者にしようと、藤堂家のお役を辞退させた。ところが幕末の混乱期にあたってこの思惑は実現せず、津村は津軽家に仕えることになる。 将棋と酒を愛し、優れた後継者を得た維新後の足取りは不確かだが、師の葛野九郎兵衛定睦とともに、細々と続く能の会には出ていたようだ。明治7年(1874年)の梅若の会に又太郎の名で記されている。その後、岩倉具視の強い後押しを受けて能楽が復興するにつれ、津村の活躍の場も広がる。明治14年(1881年)に芝能楽堂が開かれてからは、子の又太郎とともに数々の名演を見せ、高く評価された。しかし又太郎が病気に倒れ、夭折してしまい、津村は悲しみ、落胆の余りか、みずからも患い、舞台から遠ざかることとなった。 しばらく後に回復し、最盛時ほどではないにせよ、長年培った手練の技を披露して、他の名手たちと素晴らしい舞台を創り出した。余技には将棋をたしなみ、二段の免状を持つほどの腕前だったそうだ。若い時分から大の酒好きで、また強さも尋常ではなかったようだ。壮年の頃は、夜通し飲んで三升開けてもまだ余裕があったという。 明治32年(1899年)には、愛媛県の松山から上京してきた川崎利吉を弟子にする。川崎利吉は非常に稀な天稟に恵まれた人であった。即座に才を発揮して能楽界で名を上げ、後に九淵(きゅうえん)と号して、明治・大正・昭和時代を通じた大名人となる。川崎を弟子にして後およそ1年、明治33年(1900年)9月、津村は当時住んでいた東京・本所の家で、病気により、その生涯を閉じた。優れた後継者を得たのは、子を喪った津村にはせめてもの慰めであっただろうか。 【参考文献】
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