江戸時代初期に幕府の式楽となった能は、17世紀後半〜18世紀初頭にかけて隆盛期を迎えます。5代将軍・綱吉の能好きは有名ですが、6代将軍・家宣もまた能の愛好家でした。それを示す一例が、能役者から「お側御用人」になり、大名にまでなった間部詮房(まなべあきふさ)のエピソードです。
詮房は、家宣が甲府藩主・徳川綱豊であったころの藩士・西田清貞の息子でした。喜多流の樹立を許されたシテ方の喜多七太夫の弟子となっていた詮房は、甲府藩主時代の綱豊の目に止まり、用人に取り立てられました。1704年に綱豊が6代将軍となると詮房も幕臣となり、将軍の「お側御用人」となり、ついには高崎藩5万石の大名となります。能役者から大名になった例は、詮房の他にはありません。
詮房は、新井白石とともに家宣の治世を支え、「正徳の治」といわれる政治改革を断行しました。また一方で、当時将軍が好んだ能の珍曲探しに奔走し、復活上演するなど、能に関わることにも力を発揮しています。家宣時代の能の上演記録に、詮房が「籠祇王」を舞ったという記述がありますが、この曲は、おそらくこれ以前には上演されたことがない、珍しいものです。