能楽シテ方には5つの流派があり、演目が同じでもセリフや型に細かな違いが見られます。かつては流儀ごとの垣根が高い時期もあり、素人弟子を取る際に「他流に移りません」などと念書を書かせる能楽師もいたそうです。
一方、江戸時代には、能役者が藩主の意向で流儀を変えることがありました。加賀前田藩が代表例です。「加賀宝生」という言葉が残るほど宝生流の盛んな地域ですが、藩祖・前田利家が好んだのは実は金春流。五代藩主の綱紀が、将軍・徳川綱吉の宝生流贔屓に影響を受け、多くのお抱え能役者に転流を迫ったと伝わっています。
自ら転流した近年の例として観世栄夫がいます。観世銕之丞家に生まれた彼は、幼少期から稽古を続けてきたものの「喜多流の身体をつくるメソッドに魅力を感じた」と、熟慮の末に22歳で喜多流へ転じたといいます(のち観世流に復帰)。新劇やオペラにも関心を深め、俳優や演出家として能楽界のみならず多方面で活躍しました。また、金剛右京に師事した楠川正範は、戦後しばらくして後、金剛流から観世流に転じました。
そのほか、たとえば囃子方や狂言方の家に生まれて、シテ方になったりするケースは、割とよくあります。
昔から、観世家から宝生家へ、宝生家から観世家へ、金剛家から宝生家へ、など後継のいない大夫の家に、他流の大夫筋より養子を迎える場合もありました。ある種、転流と言えるかも知れませんが、これは流儀を絶やさぬためのこと。能役者同士の助け合いの表れでした。