明治維新後まもなく、猿楽能は重大な危機に直面しました。幕府や武士階級が消滅し、能役者も俸禄を失い、幕府の式楽としての地位も霧消してしまい、存続も危ぶまれるほどでした。その後、猿楽能は華族らの支えもあって持ち直し、能楽と呼ばれるようになり、再び隆盛へ向かいますが、能楽諸役のなかには、歴史の波に翻弄されて消えた流派も散見されます。
そのひとつが狂言方の鷺流(参照:トリビア133)です。またワキ方でも、
ところが、消えたはずの春藤流の伝統を受け継ぐ地域が東北に残っていたことが近年判明し、関係者を驚かせていています。宮城県北部、大崎市の田尻大貫地区では、古くから住民が、おめでたい席で「高砂」や「養老」を謡う習わしがあり、その謡い方が春藤流特有のものだとか。
では、なぜ東北の農村地域に春藤流の名残があるのでしょう。この地を治めていた仙台藩主の伊達家は、シテ方の金春流と喜多流を代々重用しており、金春流の「座付き」としてペアを組む決まりだったのが春藤流でした。春藤流に馴染んだ武士が明治以降に農業を始め、結婚式などで謡を披露する習慣が定着した、というのが事の真相のようです。