足利義満をはじめ豊臣秀吉や徳川家康など、時の権力者の庇護を得て発展した猿楽の能。といっても能役者が常に守られてばかりのひ弱な存在だったわけではありません。特に戦国時代、常日頃から武将の身近にいた彼らの多くは、武芸を当然のように嗜んでいました。
たとえば、家康の重臣となり、石見銀山、佐渡金山の開発などに携わった大久保長安(関連:トリビアQ92)は、もともとは武田信玄お抱えの能役者の家の子でした。
また伝承によれば、喜多流の始祖・喜多七太夫は堺の眼医者の子として生まれ、能好きの秀吉に腕を見込まれ能役者となりました。そのため豊臣家に大変な恩義を感じており、秀吉亡き後は秀頼に仕え、大坂夏の陣では真田幸村の配下に加わります。大阪城の落城後に捕らえられますが、能の腕前を惜しんだ徳川家康によって許されたと伝わっています。
七太夫とは逆に徳川方について戦った能役者もいます。六代目宝生大夫であった宝生勝吉は武技にすぐれ、小笠原秀政という武将に400石で抱えられていました。夏の陣で秀政が徳川方についたため勝吉も参戦し、獅子奮迅の活躍で家康から恩賜を授かったとされています。
江戸時代になると、能は徳川幕府の式楽となり、能役者は俸禄を得て、士分(武士の身分)となります。戦には出なくなりましたが、能役者が武士そのものになったわけです。